2026.06.28/五千尺ホテル上高地/五千尺ホテル上高地
上高地の歴史をたどる|江戸時代から山岳リゾートへの歩み

長野県松本市に位置する上高地は、日本を代表する山岳リゾート地です。現在では「上高地 宿泊」「避暑地 ホテル おすすめ」といった言葉で旅先を探す方も多く、河童橋や穂高連峰、梓川の景観を目当てに、毎年多くのお客様が訪れます。
一方で、実際に上高地へお越しになると、街の観光地とは異なる独特のルールや環境に驚かれる方も少なくありません。
上高地には、代表的なものとして次のような特徴があります。
- 冬期閉鎖:上高地に一般の方がお越しいただけるのは、4月17日~11月15日の7か月間のみです。
- マイカー規制:上高地にはマイカーの乗り入れができません。駐車場に停めていただき、バスかタクシーへの乗り換えが必要です。
- 夜間通行止め:19時(季節により20時)~翌朝5時までは周囲のエリアから上高地への出入りができません。
他にも、トンネルの多い山道を使ってのアクセス、建物やお手洗いのないエリアの多さ、食堂や売店の営業時間が限られていることなどなど、街の観光地を想像して来られると不便を感じることも多いと思います。
こうした特徴は、上高地の地形と歴史に深く関係しています。
標高約1,500m、高い山々に囲まれた谷あいの地。100年ほど前まではトンネルもなく、人里から山道を半日ほど歩かなければたどり着けない場所でした。
今回は、足を踏み入れるのも大変だった山深い土地が、どのようにしてどのようにして現在の「上高地」という有名山岳リゾートになったのか、その歴史をご紹介します。
目次
上高地の歴史を時代ごとに知る
上高地の歴史は、伐採地、牧場、温泉地、登山拠点、そして山岳リゾートへと移り変わってきました。
まずは全体像を整理します。
- 江戸時代:松本藩による木材の伐採地として利用
- 明治時代:伐採禁止後、牧場・温泉・漁猟・登山案内など新たな利用が始まる
- 大正時代:焼岳噴火により大正池が誕生し、観光地としての魅力が高まる
- 昭和時代:道路整備や国立公園指定により、山岳リゾートとして発展
- 平成以降:自然災害への対策を重ねながら、現在の上高地へ
江戸時代の上高地|松本藩の伐採地
上高地は江戸時代、木を伐り出すための場所として利用されていました。
上高地で伐採された木は、梓川を使って運ばれたそうです。

伐採を管理していたのは地元、松本藩。
松本藩の下で働くきこりたちは御用杣(ごようぞま)と呼ばれていました。
上高地周辺の「入四ヵ村(いりよんかそん)」では、成人男性の多くが御用杣となり、伐採や運搬を行う季節だけ、上高地に小屋を構えて生活していたといいます。
当時の上高地にはトンネルもありません。入四ヵ村のうち最も近い村からでも、山を越えて約25km、現代人の足でも9~10時間ほどかかる道のりを歩く必要がありました。

上高地に入っていたきこりは、年に200人以上ともいわれます。用材だけでなく薪や炭としても木の需要は高く、江戸時代の終わり頃には、上高地の木の多くが伐採されていました。
のちに明治時代の漁師・猟師、そして山岳案内人として知られる上條嘉門次も、江戸時代の末期に、きこりの見習いとして上高地に入った人物です。
きこりの見習いの少年たちは「炊(かしき)」と呼ばれ、きこりたちの食事を炊く役割を担っていました。一人のきこりが一日に一升ほどの米を食べていたともいわれ、当時の労働の厳しさがうかがえます。
明治の上高地|新たな利用方法の模索
明治に入ると松本藩はその役割を終え、1874(明治7)年、官林となった上高地では伐採が禁止されました。
「安曇村」と名を変えた入四ヵ村、そして上高地では、新たな生業が様々に模索され始めます。
漁師・猟師として上高地に暮らした上條嘉門次

御用杣の役割を解かれた安曇村では養蚕などを始める者が多かったといいます。
そのなかで上條嘉門次は、かつて炊(かしき)として過ごした上高地で、明神池畔に小屋を構えました。1880(明治13)年のことです。
夏は岩魚を捕って燻製にし、冬はカモシカやクマを撃って毛皮を売っていたそうです。
冬の上高地は、現代でも人の立ち入りを制限している非常に厳しい環境です。その中で生活し、山を歩き回っていた嘉門次は、上高地の主と呼ぶに相応しい人物でした。
その後、上高地へ登山者が訪れるようになると、この小屋に宿を求める人や、嘉門次の知識と経験を頼って山の案内を依頼する人が現れます。
明治の上高地を代表する産業|上高地牧場

御用杣の役目が終わった頃、長野県では畜産が奨励され、やがて広い草地を持つ上高地が、放牧の場として活用されるようになります。
1884(明治18年)から始まった上高地牧場は、1906(明治39)年には「株式会社上高地牧場」となり、最盛期には牛馬あわせて約400頭が放牧されていました。
春には牛馬を上高地へ追い上げ、秋には再び麓へと追い下げる営みが続きましたが、その道中は非常に険しいものでした。
雪の残る徳本峠を越えながら牛馬とともに進むのは過酷を極め、疲れ果てて動けなくなる牛馬や、足を滑らせて怪我を負うものもいたといいます。
こうした厳しい自然の中で営まれた上高地牧場は、長く上高地の主要な産業でしたが、登山客の増加や焼岳噴火の影響を受け、1934(昭和9)年に幕を閉じました。
最後まで牧場が営まれていた徳沢地区は、今ではキャンプ場として親しまれています。
小梨平の地名に残る農業の記録

1886(明治19)年、地元の村民から出された上高地開墾の願い出が許可されました。
作物の栽培も試みられたようですが目に見えた成果の記録はなく、上高地の厳しい環境が浮き彫りになっています。
現在、河童橋近くにある「小梨平キャンプ場」は小梨の木が数多く植えられていたことによる地名ですが、これはリンゴ栽培のための接ぎ木用の台木だったと言われています。
上高地温泉の歴史

上高地の温泉の歴史は、江戸時代までさかのぼります。
1830(文政13年)には、すでに「上口湯屋」として温泉営業が行われ、伐採を管理する松本藩の役人が滞在した記録もあります。
しかし、温泉へ続く飛騨新道は非常に険しく、冬は通行不能、夏も雨で寸断されることが多い難路でした。
さらに1860(万延元)年の暴風雨で道は遂に復旧不能となり、「上口湯屋」も損壊して廃業します。
その後、1886(明治19)年に地元の人々が再営業を願い出て許可され、翌1887(明治20)年に温泉営業が再開。
1903(明治36)年には上高地温泉株式会社が創立され、現在の上高地温泉ホテルさんへと受け継がれています。
近代登山の黎明|ウォルター・ウェストンと上條嘉門次

上高地にとって、そして日本の登山史にとって大きな転機となったのが、イギリス人牧師ウォルター・ウェストンの来日です。
日本ではそれまで、山に入るといえば山仕事や信仰登山でしたが、ヨーロッパは登山の黄金期。牧師として新天地に赴任してきたウェストンは、日本全国で数多くの山に登りました。
地元の山に詳しい案内人を雇うことも多く、上高地の周辺、北アルプスの山々を案内したのが上條嘉門次です。
ウェストンと嘉門次は浅からぬ交友を持ち、ウェストンの帰国の際には、嘉門次にアルバムや登山用具が贈られました。
当時の日本人は楽しみのために山に登るという考えがなく、ウェストンは著書「日本アルプスの登山と探検」の中で「田舎の人々は、銀も水晶も出ない山へ登るのに、何を好きこのんでそんな苦労をするのか、ほとんど理解できないのである」と書いています。
しかしそんな時代から、1894(明治27)年に出版された地理学者・志賀重昂の「日本風景論」、そしてウェストンとの交流などを経て、日本人にも「山を楽しむ」という考え方が広がっていきました。
大正の上高地|大正池の出現と観光地化
明治時代に行われた様々な試みの中、上高地は最終的に、登山・観光を主要産業として歩みを進めることになります。
その方向性を決定づけた大きなきっかけが、1915(大正4)年、焼岳の噴火による大正池の出現でした。

大正池の出現は、観光の柱となる絶景ポイントが生まれたというだけにとどまらず、後に上高地の入り口となる「釜トンネル」開通のきっかけにもなりました。
トンネル開削の目的は、大正池の水を利用した発電所の建設です。
現在も稼働している霞沢発電所、その取水口である大正池まで資材を運搬するために作られたのが、釜トンネルの前身となるトンネルでした。
開通年は1927(昭和2)年頃とされています。
一方、大正池を出現させた焼岳の噴火は、牧場への逆風となりました。
火山灰が積もったために草が枯れ、餓死する牛馬も出るほどの被害でした。さらには登山者の増加なども相まって、牧場は縮小へと向かっていきます。
山岳エリアでは、槍ヶ岳や穂高岳に山小屋が建設されはじめました。
五千尺ホテル上高地の創業は1918(大正7)年。
1915(大正4)年開業の養老館上高地支店の営業を引き継ぐ形で、「旅舎五千尺」として河童橋畔に開業しました。
昭和の上高地|日本を代表する山岳リゾートへ

昭和に入ると、上高地は山岳リゾートとしてその知名度を高めていきます。
1927(昭和2)年、日本を代表する景勝地を選定する「日本新八景」にて、上高地は渓谷の部第一位に選ばれました。
長野県も観光地としての上高地整備を積極的に推し進め、1933(昭和8)年には帝国ホテルさんを誘致、それに伴い県道を整備し、バスの乗り入れも始まりました。
これにより、約25kmの山道を歩かなければ入ることができなかった上高地が、今のように一般の方々へと開かれたのです。
1934(昭和9)年には中部山岳国立公園に指定され、自然保護のためのルールも整備されていきます。
現在の山岳リゾート上高地の、基本的な姿が固まったのがこの時期です。
平成の上高地|土砂災害とアクセス整備

上高地は、周囲を日本有数の山岳に囲まれた谷底地形です。
上高地へ至る唯一の車道も険しい渓谷に沿って作られており、過去に幾度もの土砂災害、その対策としてのトンネル延長・新規建設を繰り返してきました。
今も語り継がれるのは、1999(平成11)年、台風の豪雨による釜トンネル上ロックシェッド崩落と、2011(平成23)年、梅雨の大雨による産谷沢(うぶやざわ)の崩落です。
いずれも人的被害はなかったものの多くの観光客が足止めされ、上高地その後しばらくの休業を余儀なくされました。
前者の事故を受けて釜上トンネルが、後者の事故を受けて上高地トンネルが建設され、上高地へのアクセスは少しずつ、土砂災害の影響を受けにくいものになってきています。
とはいえ安全を確保するための努力は今も様々な場面で必要で、時にはお客様にご不便をお掛けしてしまうこともあります。
上高地公園線は連続雨量80mmで通行止めとなり、上高地への出入りができなくなります。現在も年に数回、この規制が発令されることがあります。
上高地の行き方|歴史ある山岳リゾートへ向かう前に知っておきたいこと
上高地の行き方は、一般的な観光地とは異なります。
自然環境を守るため、上高地ではマイカー規制が行われており、自家用車で直接入ることはできません。
主なアクセス方法は次の通りです。
- 松本方面から:沢渡駐車場でバスまたはタクシーに乗り換え
- 高山方面から:平湯あかんだな駐車場でバスまたはタクシーに乗り換え
- 公共交通機関利用:松本駅から電車・バスを乗り継いで上高地へ
また、夜間は上高地へ出入りできない時間帯があります。
上高地で宿泊される場合は、チェックイン時刻に間に合うよう、バスやタクシーの運行時間を事前に確認してください。
「上高地 行き方」を調べている方は、出発地、乗り換え場所、最終バスの時刻を必ず確認しておくと安心です。
詳しい情報はこちらから
現代の上高地|歴史を感じながら滞在する山岳リゾート
2024(令和5)年、上高地を含む中部山岳国立公園は、国立公園指定90周年を迎えました。
昨年2025(令和6)年に上高地を訪れた観光客の方は166万人を超え、今も多くの方々に愛されるリゾート地であり続けています。

今の私たちが過ごす時間もまた、上高地の歴史に積み重なっていきます。
上高地の魅力や様々な出会い、そして変化や不便さも含め、上高地での体験をご一緒させていただけましたら、これに勝る幸いはありません。
絶景の中にある歴史にも思いを馳せながら、五千尺ホテル上高地での滞在をお楽しみください。
五千尺ホテル上高地で楽しむ宿泊体験

五千尺ホテル上高地は、上高地のランドマークである河童橋の目の前に位置する山岳リゾートホテルです。
上高地の歴史や自然を感じながら宿泊したい方にとって、河童橋前という立地は大きな魅力です。朝の静かな梓川、夕暮れの穂高連峰、観光客が少なくなる夜の上高地など、宿泊するからこそ出会える時間があります。
館内には高級感と温かみを備えた松本民芸家具を配し、ご夕食では、「ジャパンアルプス/上高地のマウンテンリゾート・キュイジーヌ」というコンセプトのもと、フレンチの技法を礎に、信州・飛騨・北陸エリアの食材とワインで紡ぐディナーを提供しています。
料理・ダイニングの詳細については、別記事でご紹介しております。
上高地のホテルをお探しの方、上高地での宿泊を検討されている方は、歴史ある河童橋前での滞在をぜひご検討ください。
参考文献|上高地の歴史を知るならこちら

今回の記事の参考にさせていただいた書籍を以下にご紹介いたします。
五千尺ホテル上高地の談話室にもご用意がございますので、ご滞在のお供にご覧いただければ幸いです。
- 日本アルプスの登山と探検(岩波書店)
- 上高地物語(信州の旅社)
- 釜トンネル 上高地の昭和・平成史(信濃毎日新聞社)
- ウォルター・ウェストンと上條嘉門次(求龍堂)
- 世紀を超えて 徳澤園140年史(徳澤園)



