上高地の宿泊なら五千尺ホテル上高地 - 河童橋すぐ横で観光・散策にも好アクセス

上高地の歴史をたどる②|自然保護と開発、マイカー規制

10月の上高地で撮影した河童橋

日本有数の山岳リゾート地として知られる上高地。

訪れる皆様には、街中とは異なる様々なルールを守っていただく必要があり、ときにはご不便をお掛けしてしまうこともあるかもしれません。しかし、そのひとつひとつのルールには、必ず理由と経緯があります。

以前の記事では、上高地が現在のような姿になるまでの歴史について詳しくご紹介いたしました。

上高地の歴史をたどる|江戸時代から山岳リゾートへの歩み

今回は上高地の歴史をたどる第二弾。

「自然保護の歴史」に焦点を当てて、上高地の自然がどのように守られてきたのかをご紹介します。

伐採から保護へ

伐採の禁止

先の記事でご紹介したように、上高地は江戸時代、松本藩が有する伐採地でした。
燃料である薪や炭、板ぶき屋根の屋根板材など、江戸時代の木の需要は多く、江戸時代の終わり頃には、ほとんどの木が切り尽くされた「尽山(つきやま)」の状態になってしまっていたといいます。

1871(明治4)年の廃藩置県で松本藩がなくなると官林となり、1874(明治7)年には伐採が禁じられました。
伐採によって生計を立てていた周辺の村々の困窮により、1884(明治17)年、島々谷(上高地から見て峠の反対側)については「慣行特売」の名の下に伐採が許可され、その後も官林伐採は行われましたが、地元の人々が生計を立てる手段は、伐採から他の生業へと移っていきました(前回の記事で詳しく解説しています)。

上高地・徳本峠から見た明神岳

さまざまな保護指定のはじまり

1909(明治42)年、山林局の長野大林区署より、上高地周辺をはじめとした複数の管轄区に対して高山植物の採取禁止が通達されます

1916(大正5)年には、同じく山林局により、上高地と周辺の山々およそ1万haが「上高地学術参考保護林」に指定されました。この指定の目的のひとつには、伐採からの保護が謳われています。

同じ頃、伐採によって木が減っていた上高地に、植林がおこなわれました。
1914(大正3)年からは、現在の上高地バスターミナル周辺、1915(大正4)年からは小梨平で植林が始まり、このカラマツ林は現在も見ることができます。

上高地・小梨平のカラマツ黄葉

1928(昭和3)年には、当時の史蹟名勝天然紀念物保存法により、上高地が国の名勝および天然記念物に指定されました(現在は文化財保護法による特別名勝・特別天然記念物)。

また1931(昭和6)年には国立公園法(現在は自然公園法)が公布され、1934(昭和9)年には上高地を含む北アルプス一帯が、中部山岳国立公園に指定されました。

このように、当時できはじめたばかりの自然保護のしくみが、上高地に適用されていきました。

上高地ダム計画

一方で、時代は新たな電源開発を求めており、日本各地でダム建設が計画されました。
1938(昭和13)年に発表された尾瀬のダム計画に対する反対運動は、日本最初の本格的な自然保護運動といわれます。
また実際に建設されたダムとしては、1956(昭和31)年に着工された黒部ダムが有名です。

同様に山に囲まれた地形である上高地にも、ダム開発計画がありました。

戦前の上高地ダム計画

1924(大正13)年、京浜電力から、ダムを築いて上高地一帯を貯水池化し、水力発電所を建設する計画が提出されました。
これに対して、国立公園制定の準備をしていた内務省衛生局などが反対を表明し、長野県知事が開発申請を不許可としたため計画は中止されました。

先に述べた1928(昭和3)年の名勝・天然記念物指定には、内務省が上高地を電源開発から保護しようとする意図もあったといわれます。

戦後の上高地ダム計画

その後もダムの話が持ち上がることはあったものの実現には至らず、ふたたび本格的に計画が動き出したのは、1956(昭和31)年のことでした。

長野県が主導したこの計画は、農業用水の確保と電源開発を目的として、明神池の上流800mの地点にダムを建設し、そこから引水して発電所を設けるというものでした。

反対運動は、計画の正式発表前から始まりました。
尾瀬の保護運動から発展して発足した日本自然保護協会は、1954(昭和29)年、上高地発電計画に関する陳情書を提出。
その後も会合が重ねられ、1956(昭和31)年には、ダム計画反対運動のための「上高地保存期成連盟」が結成されました。
上高地保存期成連盟には、国立公園協会や自然保護協会、全日本観光連盟、日本山岳会などのほか、地元組織である上高地旅館組合なども名を連ねていました。

反対運動のさなか、上高地ではダム建設のための地質調査が行われました。その結果は「ダム建設は技術的に不可能に近い」。
上高地という場所は、もともと深い渓谷だったのが、およそ1万2千年前に湖の底に沈み、その水底にたまった砂礫でつくられた平地です。

岳沢から見た上高地

水を通しやすい砂礫層の上はダムの建設には向かず、結局、上高地のダム建設計画は中止されました。

代わりに計画されたのが、上高地の下流、梓川中流の「奈川渡(ながわど)ダム」「水殿(みどの)ダム」「稲核(いねこき)ダム」の3つのダムです。
1957(昭和32)年に計画発表、1964(昭和39)年に着工。この3つのダムは「安曇3ダム」と呼ばれ、上高地へ至るバスの車窓から今も見ることができます。

こぼれ話|焼岳がつくりあげた自然のダム・大正池

人の手によるダム建設は断念されましたが、上高地には自然がつくり上げた堰止湖、「大正池」があります。
1915(大正4)年6月6日、焼岳の噴火によって梓川がせきとめられ、一夜にして出現した池が大正池です。

上高地・大正池から見た穂高連峰

1928(昭和3)年に運転を開始した霞沢発電所は、この大正池を調整池とし、池から取水した水を発電に利用しています。
なお、池ができた当初は焼岳の噴火による泥流がせき止めていましたが、後に人工的に補強され、現在ではゴム引きの堰になっています。

上高地・大正池の堰

周囲の山からの土砂流入で日々埋まっていく大正池を維持するため、今も毎年秋には土砂の浚渫(しゅんせつ)工事が行われています。
雄大な自然を利用していくのは、容易なことではありません。

マイカー規制の歴史

マイカー規制とは

前回の記事でもご紹介しましたが、上高地は、一般の自家用車の乗り入れができない「カーレスリゾート」です。
上高地に至る県道上高地公園線(長野県道24号)は、日本で初めてマイカー規制が実施された道路です。
観光地である上高地にとって、お越しいただく方の交通手段を規制することは大きな決断。ここでは、マイカー規制がどのように始まり、現在まで続いているのかをご紹介します。

道路開通の歴史

上高地の玄関口、釜トンネルの前身となるトンネルが開通したのは、1927(昭和2)年頃。
1915(大正4)年に出現した大正池を発電に用いるにあたり、資材を運ぶためのトンネルを開けたのが始まりです。
その後、拡張工事などを経て、1933(昭和8)年にはバス運行が開始されました。

マイカー規制の背景

昭和30~40年代、高度経済成長、レジャーの増加、マイカーの普及などを背景に、上高地を訪れる人の数は増えていきました。
上高地へ至る道はカーブの多い山道で渋滞が起こりやすく、また当時の車の性能もあいまって、急坂を登り切れずにエンストしてしまう車も続出したといいます。
また、上高地にある駐車場の数は限られており、停めきれない車が道路脇に置かれてしまう事態も常態化していました。

マイカー規制はこのような状況を受け、自然保護や渋滞対策を目的として、1974(昭和49)年に試験実施され、1975(昭和50)年には正式に実施が始まりました。

釜トンネル入り口

マイカー規制の拡大

マイカー規制が正式に始まった1975(昭和50)年には、夏の30日間のみの規制でした。
1977(昭和52)年には秋季の規制を開始、その後も順次規制期間が延びていき、1996(平成8)年、通年マイカー規制となりました。
言い方を変えれば、1995(平成7)年まではマイカーで来られる時期があったということですので、マイカーで上高地を訪れた思い出を持つ方も多いかもしれません。

2004(平成16)年からは、観光バス規制も始まりました。前年の混雑状況をもとにシーズン中30日程度の規制日を設定し、観光バスでお越しの方にも沢渡地区・平湯地区でのシャトルバスへの乗り換えをお願いするものです。
ただし、上高地の規制の一方で、乗り換えをおこなう周辺駐車場の混雑という問題が発生してしまいました。

観光バス規制の日程は前年の混雑状況をもとに設定されるため、コロナ禍で上高地への来訪が減った2020(令和2)年以降、規制日数は減少します。
2021(令和3)年~2023(令和5)年の観光バス規制日は4日間。
2024(令和6)年以降は、バス規制のあり方を見直すため、シーズン中の観光バス規制日が設定されていません。

上高地バスターミナル

近年の問題

2024(令和6)年頃から、マイカー規制に伴う駐車・乗り換えエリアの混雑が大きな問題になっています。
上高地への来訪者数が増えたこと、また、松本からの公共交通機関ではなくマイカーで上高地の付近までいらっしゃる方の割合が増えたことなどが要因です。

2025(令和7)年からは、駐車場ライブカメラや電光掲示板によるリアルタイム情報の発信、混雑予測カレンダーの公開、臨時駐車場の開設などの対策が進められています。

そして現在へ

今の上高地は、自然を守り、利用する山岳観光地です。
しかし今回の記事でご紹介したように、上高地も最初からひとつの方向を向いていたわけではありません。
これからも、お客様や上高地にかかわる様々な方の声を聞きながら、より良い上高地のあり方を模索していきます。

「上高地の歴史をたどる」シリーズは全3回予定。
今回は大きな制度の話が中心でしたが、次回は今も地元で行われている日々の自然保護活動、その歴史と経緯を紐解きます。

五千尺ホテル上高地で上高地の歴史を感じる

五千尺ホテル上高地の前身である旅舎五千尺の創業は、1918(大正7)年。
大正池ができたばかり、まだ車道も通っていない時代から、上高地の変化を見守ってきました。

ホテル自身も時代に合わせて変化し、また伝統を大切にしながら、上高地の歴史と今を感じていただける拠点であり続けています。

2026年上高地シーズン 宿泊予約

 

参考文献|上高地の自然保護の歴史を知るならこちら

今回の記事の参考にさせていただいた書籍を以下にご紹介いたします。
一部の書籍は五千尺ホテル上高地の談話室にもご用意がございますので、ご滞在のお供にご覧いただければ幸いです。

  • 上高地物語(信州の旅社)
  • 釜トンネル 上高地の昭和・平成史(信濃毎日新聞社)
  • ウォルター・ウェストンと上條嘉門次(求龍堂)
  • 自然保護と戦後日本の国立公園(時潮社)

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